
プロローグ 黒薔薇の誘い
「美しい夜だね。まるで悲劇の幕開けみたいに」
静寂を破るように、窓の外から穏やかな声が響いた。
低く、柔らかいのに、不思議と耳に残る声。
オレはそちらに目を向けたが、起き上がることはできなかった。
身体の上には、ついさっきまでオレを弄んでいた男の重みが、ずっしりとのしかかっている。
まだ温かいのに、ぴくりとも動かない。
寝台の上で、息絶えていた。
蝋燭の火がわずかに揺れ、焦げた芯の匂いと、甘ったるい香油の残り香が鼻をかすめる。
それは、この館にいつも漂う匂いだ。
高価な香油と豪奢な調度品に囲まれた部屋。
外の世界から切り離された鳥籠のような場所。
オレがここに来たのは、いつだっただろう。
夜気が入り込む窓の向こうには、黒ずくめの影がひとつ。
「……えっと、あんた、誰?]
オレが問いかけると、窓枠に足をかけた男がくすりと笑った。
闇の中から、ひらりと室内へ舞い降りた姿を見て、思わず息をのむ。
(綺麗な人だ)
燭台の淡い明かりに照らされたのは、黒ずくめの装束に身を包んだ長身の男。
黒褐色の髪をさらりと撫でつけ、深い緑の瞳でオレを見つめてくる。
その視線はどこか品定めするようで、柔らかいのに、ぞくりとするほど冷たい。
「仕事に来てみれば、思わぬところに可憐な花が咲いているものだ」
形のいい唇から紡がれる賛辞は、流れるように美しい。
けれど、そこに熱はない。
「ねえ、この人、死んでるよ。あんたが?」
「そうだよ」
確信を持って問いかけると、男はなんでもないことのように答えた。
オレも、いちいち怯えたりはしない。
こんなのは、何度目だろう。
心が動くこともなくなった。
「やりすぎだと思うけど……」
オレが呟くと、男は興味を引かれたように首を傾げた。
「どういう意味かな?」
「だって……オレを連れていくだけなら、ここまでしなくてもいいかなって」
「君をどうにかしろという依頼は受けていないよ」
「……そうなの?」
オレが目を丸くすると、男は寝台にうつ伏せになった死体の襟首を掴み、まるで羽織を脱ぎ捨てるかのように床へ放った。
その仕草はあまりにも優雅で、残酷なほど無造作。
そうして、ようやく重みから解放されたオレの姿を、まじまじと見つめてくる。
「美しいね。月光を受けて輝く薔薇のようだ」
美しさを讃える言葉は聞き飽きているけれど、この男の言葉には、色めいたものがない。
だからこそ、なんだか不気味だった。
オレは寝台から身を起こした。
床に転がった死体の残した痕が、肌にじわりと痛む。
落ちていた衣服を拾い上げ、さっさと身にまとった。
その間も、深緑の瞳が、じっとオレを射抜いている。
まるで、観察でもしているように。
違和感が、だんだん大きくなってくる。
男はふいに問いかけてきた。
「君にとっては、知らない男に連れ去られる状況が『当たり前』なのかな?」
興味深げな、どこか面白がるような口調。
一瞬、言葉に詰まった。
「……どうして、そんなこと聞くの?」
首を傾げて聞き返すと、男の目がすうっと細められた。
唐突に距離を詰められ、顎をとらえられる。
「……!」
驚く間もなく、深緑の瞳が至近距離でオレを捉えた。
「君を手に入れたいから、と言ったら――どうする?」
妖艶な微笑みが、薄暗い部屋に花のように浮かぶ。
オレは、反射的に微笑みを浮かべた。
選択肢は、ひとつしかないのだから。
「どうするって……どうしようもないよ。連れて行って」
「ふふ……それは嬉しいね」
男の笑みが深くなる。
その手を取るしかない。
オレの世界は、いつだってそうやって決められてきた。
「おいで」
言われるがまま、その手を取ると――オレの世界が変わり始めた。
第1章 黒薔薇の檻
指導者
館を出て、馬車に乗せられる。
窓の外には闇が広がっていた。
馬車の中は揺れとともに静寂が支配し、オレはただ身を縮こまらせるしかなかった。
どれほど時間が経ったのか。
やがて、ふいに揺れが止まり、男が立ち上がる。
「ここからは、徒歩になる――失礼するよ」
そうして、軽々とオレの身体を抱き上げる。
夜の静寂を裂くように、男はオレを抱えたまま疾走した。
風が頬を切る。
漆黒の闇が視界を塗りつぶし、時折、木々の間から月の光がわずかに差し込んでは消えた。
どこへ運ばれるのかもわからないまま、オレはただ身を固くするしかなかった。
長い時間、森を駆け抜けるうちに、やがて空が仄白く染まり始める。
遠く、鳥のさえずりが聞こえた。
夜の名残を微かに留めながら、世界がゆっくりと朝へ移り変わっていく。
そして――目の前に、静かな館が現れた。
薄明かりの中、ぼんやりと浮かび上がる古めかしい石造りの建物。
荘厳な雰囲気を纏いながらも、どこか冷たく、孤独を孕んでいるように見えた。
男は迷いなく館の扉を押し開ける。
年季の入った木製の扉が軋み、ひんやりとした空気がオレの肌を刺した。
――寒さだけじゃない。
不安と緊張が、じわりと胸の奥に広がる。
だが、意外にも館の内部は明るかった。
壁にはいくつものランプがかけられ、柔らかな光が床や壁を照らしている。
歩くのに困ることはなさそうだが、明るさがかえって不気味な気もした。
男は軽やかな足取りで館の階段を上り、重厚な木造の扉を開ける。
途端に、暖かな空気がオレの頬を撫でた。
室内は暖炉の灯りに照らされ、落ち着いた色合いの調度品が整然と並んでいる。
中でも目を引いたのは、大量の本が収められた本棚と、壁一面に張られた地図や文書だった。
何が書かれているのかは、さっぱりわからないけれども。
本棚の手前には整えられた執務机があり、向かいには座り心地のよさそうなソファが置かれている。
男はオレをゆっくりとソファに降ろし、優雅に執務机に腰掛けた。
指先で顎を支えながら、涼やかな瞳がオレを見つめる。
「さて、自己紹介をしようか。私はアイゼン。ここの指導者だよ」
「指導者?」
「君も気づいているだろう? ここは暗殺者の拠点。私は、才能のある者を集めて、暗殺者として教育している」
「……つまり、一番偉い人?」
「ここでは、そういうことになるね」
間の抜けたオレの問いかけに、アイゼンと名乗った男は含みのある目を向け、くすりと笑った。
けれども、初めて出会った時と同じで、目の奥には品定めするような光がある。
「君を連れてきたのは、育ててみたいと感じたからだ」
「……育てる?」
「ああ」
「育てるって、もしかして……暗殺者として?」
思わず聞き返す。
さすがに予想外すぎて、うまく頭が回らなかった。
てっきり、性欲処理でもさせられるのかと思っていたからだ。
「そうだよ。君には、他の誰よりも優れた武器があるだろう?」
アイゼンの視線が、オレの身体を、するりと撫でるように流れる。
月光のように輝く長い銀色の髪。
長い睫毛に縁取られた紫水晶のような瞳。
細くしなやかな手足、なめらかな白い肌――。
「――ああ、やはり美しい」
小さく呟くアイゼンの声は、どこか艶やかだった。
「君の名前は?」
「……ブランシェ」
「美しい名前だ。君によく似合っている」
まるで思い出したかのように尋ねられた名前。
アイゼンは満足げに頷き、穏やかな微笑を浮かべる。
だが、その笑みには冷徹な光が宿っていた。
「……身体を使った暗殺術を教えよう。君ならきっと、上手くやれる」
アイゼンの言葉に、そういうことかと、やっと納得する。
こんな利用のされ方は初めてだと、乾いた笑いが漏れた。
「……君のような人間が、この組織に来るのは異例だ」
アイゼンの静かな声が、部屋に響いた。
「ここで生きるために、一つだけ理解しておくべきことがある」
暖炉の炎が揺らめき、彼の端正な顔に淡い影を落とす。
「この組織の『掟』を破れば、待つのは『処分』だ」
淡々とした声。
オレの指先が、微かに震える。
「逃亡や、情報の漏洩……それらは、死を意味する」
――死。
今までの人生で、幾度となく、頭をよぎった言葉だった。
静かな諦めが、心を支配する。
「……うん、わかったよ」
オレは、ただ微笑んで頷いた。
「……この組織は、君が思っているよりも大きなものだ」
アイゼンは、オレが何もわかっていないと思っているのだろう。
言い聞かせるように、ゆっくりと告げる。
「この拠点は、数ある支部のひとつに過ぎない。その上には、『上層部』が存在する」
「上層部……?」
耳慣れない言葉に、オレは小さく首を傾げた。
「そう。その頂点に立つのは、一人の絶対的な権力者。彼は国の影で暗躍し、必要とされる暗殺者を育てさせ、指示を下している」
アイゼンの緑の瞳が、静かにオレを見つめる。
「処分の決定権を持つのは上層部だが、彼らが表に姿を見せることは決してない」
その言葉に、オレは思わず息を呑んだ。
「……つまり、オレたちは監視されているってこと?」
「その通り。どこにいるのかもわからない『監視者』が、それぞれの支部に目を光らせている」
アイゼンの唇に、微かな笑みが浮かぶ。
「そして、もし彼らが『異変』を察知すれば——」
「『処分』しに来る……?」
低く呟いたオレの言葉に、アイゼンは静かに頷いた。
「……そういうことだね」
そう言いながら、アイゼンは執務机の引き出しから、一枚の小さな金属板を取り出した。
執務机から立ち上がると、ソファに座るオレに、金属板を手渡してくる。
そこには、黒薔薇の紋章が刻まれていた。
「これは……」
「『上層部』の紋章だよ」
オレは、金属板の冷たい感触を指でなぞる。
黒薔薇――それは、美しくもあり、どこか冷たくもある。
「ここにいる暗殺者は、私が見出した者たちだ。彼らは、それぞれ自分の意思で生きている。けれど――」
アイゼンは、オレの目を真っ直ぐに見据える。
「……組織を裏切ることだけは、決して許されない」
その言葉が、オレの胸の奥深くに沈んだ。
――逃げられない。
――裏切れば、殺される。
けれど、それは――。
(これまでと、たいして変わらない)
オレは、小さく息を吐き、笑った。
「……わかったよ」
「選択肢がない」という状況には、慣れきっている。
アイゼンは、それ以上は何も言わなかった。
アイゼンとの話が終わる頃、控えめに扉を叩く音が響いた。
「また誰か拾ってこられたのですか?」
扉が開くと、そこに立っていたのは一人の青年。
金色の髪が暖炉の灯りに照らされ、まるで淡い陽光を纏っているかのようだった。
涼しげな青色の瞳が、ゆっくりとオレの姿を捉える。
「……美しい」
陶然とした呟きが、形のいい唇から漏れた。
「……アイゼン、彼は、任務先で?」
「ああ、標的に囲われていたところを、偶然見つけてね。とてもいい『素材』だろう?」
しばしの沈黙の後、彼は微かに目を細めた。
「……なるほど、そういうことですか」
唇に浮かんだ微笑みは、どこか儚げだった。
「初めまして、僕はリヒトールと申します。あなたの名前をお伺いしても?」
「ブランシェだよ」
オレがそう名乗ると、リヒトールと名乗った青年は優雅に頷いた。
「綺麗な名前ですね」
「――そんな人形を拾ってきて、どうしようってんだ」
鼻で笑うような声が響く。
扉のところに、大柄な影が立っていた。
無造作な灰色の髪、鋭い目つき、大きな体――リヒトールとは、まるで正反対の男だった。
「はじめまして」
オレが軽く微笑むと、男の表情が険しくなる。
「……チッ」
舌打ちの後、男は低く呟いた。
「……気に入らねぇな」
何が気に障ったのかはわからない。
「バルトラ、いくらなんでも無礼でしょう」
リヒトールがたしなめるが、バルトラと呼ばれた男は、意に介す様子もない。
「アイゼン、本気で、こんなのを育てるつもりかよ?」
「ああ。君たちにも協力してもらうつもりだよ」
「……は?」
アイゼンはオレの顎を軽く持ち上げた。
「男を虜にする方法を学ぶんだ。経験は多い方がいいだろう?」
その言葉の意味が、ゆっくりと胸に落ちていく。
リヒトールはそっと視線を逸らし、バルトラは忌々しげに舌打ちをした。
「楽しみだよ――君を染め上げるのが、ね」
オレはアイゼンの瞳を見つめながら、静かに息を吐いた。
(……暗殺者として、生きる、か)
それがどういうことなのか、今のオレには想像もできなかった。
※※※
「ここが君の部屋だ」
アイゼンの落ち着いた声が響く。
長い廊下を抜け、案内されたのは簡素な扉の前だった。
アイゼンが鍵を開けると、きぃ、と控えめな音を立てて扉が開く。
中に足を踏み入れると、こぢんまりとした部屋が広がっていた。
(思ったより、ちゃんとしてる)
殺風景な小部屋を想像していたが、意外にも清潔で整っている。
木製の寝台と机、そして小ぶりなクローゼット。
壁は質素な灰色の石造りで、ほんのりと冷たい空気が漂っていた。
「最低限のものは揃えてあるけれど、必要なものがあれば申請するといい。任務を受けるようになれば報酬も出すから、自分で揃える者もいるしね」
「へぇ……」
オレは軽く頷きながら、寝台に腰を下ろした。
思ったよりしっかりした作りで、ふかふかではないが、固すぎるわけでもない。
「これは、君に渡しておくよ」
「うん」
アイゼンが小さな金属の鍵を手渡してくる。
受け取ると、ひんやりとした感触が指先に伝わった。
「組織の者は基本的に一人一部屋だ。もし何か問題があればすぐに報告するように」
「わかったよ」
「ここから逃げたり、情報を漏らしたりすれば、例外なく『処分』される――理解しているね?」
「……うん、わかってるよ」
念を押すように口にされた言葉を受け、オレは微笑んだ。
わざわざ言われなくとも、「逃げよう」などと、最初から思っていない。
「次は浴場を案内しよう」
アイゼンが踵を返し、オレも立ち上がって後を追った。
長い廊下を抜け、石造りの回廊を奥へと進む。
ひんやりとした空気が肌に触れ、どこか厳かな雰囲気が漂っている。
「ここが浴場だ」
突き当たりの扉を開けると、目の前に広々とした空間が広がった。
「……こんなに広いなら、皆で入る感じ?」
「時間帯によるね。混雑を避けたければ、空いている時間を見つければいいよ」
「ふうん……」
壁には整然と洗い場が並び、大きな湯船からは湯気が立ち上っている。
水音が静かに響き、湯の香りがかすかに鼻をくすぐった。
「湯には回復を早める成分が含まれている。体を清潔に保つことも戦いの基本だ。毎日入るように」
「戦いの、基本……」
オレが戦うのかはわからないが、清潔を保つのは好きだ。文句はない。
「次は訓練場だ」
浴場を出て歩くこと数分。
館の奥にある広大な空間へと足を踏み入れる。
「けっこう広いね」
「ここで武術や暗器の訓練をしている。訓練は基本的に各自の裁量に任せているけれど、新入りの場合は、基礎から教えているよ」
「オレもやるの?」
「君の場合は、下手に武術を学べば、獲物に違和感を与える可能性が高い。訓練の内容については、君の適性を見て考えよう」
「そっか……」
少し、ほっとした。
「武術や暗器の訓練」なんてものに、自分がついていけるとは到底思えない。
遠くでは、何人かが模擬戦をしていた。
剣がぶつかる鋭い音、地面を踏みしめる足音、短い指示の声。
空気は張り詰め、オレを一瞥する者もいたが、特に干渉してくる気配はない
(すごい世界に来ちゃったな……)
漠然とそんなことを思いながら、オレは視線を巡らせる。
「次は食堂だ。そろそろ皆が集まっている頃だろう」
アイゼンの言葉に、オレは気を引き締めた。
食堂の扉を開けた瞬間、ざわ……っと場の空気が揺れた。
「……」
数十人の視線が一斉にオレへ向けられる。
物珍しそうに見つめる者、興味なさそうに食事を続ける者。
そして、あからさまに目を見張る者――反応はさまざまだった。
「新入りか?」
誰かがぽつりと呟き、それが引き金になったように小さなざわめきが広がっていく。
「……ふむ」
アイゼンは軽く咳払いすると、静かに告げた。
「紹介するよ。今日からここで暮らすことになったブランシェだ」
静寂が訪れ、再び視線が集まる。
「へぇ、珍しいのが来たな……」
「妙に可愛らしい顔をしてるな」
ひそひそとした声が聞こえる。オレは適当に笑みを浮かべながら、その場に佇んだ。
そんな中、ひとりの男がすっと立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくる。
(……あ、さっきの)
淡い金髪がさらりと揺れる美青年――リヒトールだったか。
「改めて、よろしくお願いします、ブランシェ」
「……よろしく」
オレは微笑んだまま、その手を取った。柔らかく温かい。
「こちらに来たばかりで、まだ不安もあるでしょう? よろしければ、僕と一緒に食事をしませんか?」
「――ハッ、『お貴族様』が。早速ツバつけようってか?」
挑発的な声が響き、オレはそちらを見る。
無造作な灰色の髪、大柄な体躯。
そして、獲物を値踏みするような鋭い瞳。
バルトラだ。
「育ちが違うと、まともな振る舞いを知らないんですね」
リヒトールが静かに言い返す。
オレは思わず、二人を見比べた――なんだか、面倒なことになりそうな気がする。
「君たちは、本当に毎日飽きないね」
アイゼンがやれやれと肩をすくめた。
こんなやりとりは日常茶飯事らしい。彼はかまわず続ける。
「食堂では、毎日決まった時間に食事の提供がある。そこに食器があるから、適当に取って食べればいい」
「料理人がいるの?」
オレは食堂の奥を見て、思わず尋ねた。
驚くほどの品数の料理が、大皿に山盛りに載せられていたからだ。
数種類のパンから始まり、肉料理や魚料理、野菜料理、スープ、デザートまで。
見るからに栄養価の高そうな食材を使った料理が、どっさりと長机の上に並べられている。
「ああ、組織を支える者として、何人か雇っている。食事だけではなく、掃除や情報収集を専門とする者もいるよ」
「そうなんだ……」
話を聞きながらも、食欲をそそる匂いに惹かれていると、アイゼンがふっと笑った。
「では、私もいただこうかな。リヒトール、ブランシェに色々教えておいてくれるかい?」
「ええ、もちろんです」
リヒトールは微笑むと、まるで本物の貴族のような優雅な仕草で、オレのために椅子を引いた。
「どうぞ」
「……ありがとう」
オレは少し戸惑いながらも、促されるままに席につく。
その横で、バルトラが鼻を鳴らした。
「フン、お貴族様の手厚い歓迎ってわけか。せいぜい、甘やかしてもらえよ」
「……あなたは、いちいちそういう言い方しかできないのですか?」
リヒトールが呆れたように溜息をつくが、バルトラは気にも留めずに食事を取りに行く。
「まったく、あの男は……ブランシェ、最初ですから、僕が適当に何か取ってきますね」
リヒトールが料理を取りに行ってしまい、オレは椅子に座ったままぼんやりとしていた。
食堂は再びざわつきを取り戻し、各々が食事に戻っている。
とはいえ、時折こちらに向けられる視線があるのは、やはり気になる。
(……そんなに珍しいのかな、オレ)
リヒトールが戻るまでの間、食卓の端を指先でなぞりながら考える。
もしかしたら、自分のような「使い道」の人間が他にもいるのかもしれない――と思っていたが、そうでもないらしい。
食堂にいるのは、見るからに自分より体格の良い男たちばかりだ。
「お待たせしました」
やわらかな声とともに、リヒトールが盆を持って戻ってきた。
そこには、ほどよく盛られた料理が並んでいる。
パンとスープ、香ばしい焼き肉、付け合わせの野菜に甘い果物まで。
「食べやすいものを選んできました。無理せず、お好きなものからどうぞ」
まるで給仕のように盆を差し出す彼を見て、思わず笑ってしまう。
「……ありがとう。でも、なんかすごいね、至れり尽くせりっていうか」
「大げさすぎましたか?」
リヒトールは冗談めかした口調で、微笑みながらオレの前に座る。
「あなたがどんな環境で生きてきたかは、聞いていませんが……慣れない場所では、少しでも安心できた方がいいかと思いましたので」
「……そっか」
ふと思った。
ここにいる誰もが、最初は『慣れない場所』だったはずだ。今はそれが当たり前になっているだけで。
彼らは、どうしてここに来たのだろう。
「遠慮せずに食べてくださいね。食事は、戦いのための活力ですから」
「戦い、ね……」
オレは適当に肩をすくめながら、スープに手を伸ばす。
――温かい。
口に含むと、じんわりと胃の中に染み渡るような優しい味が広がった。
「……美味しい」
「ああ、それは良かった」
リヒトールが微笑む。
それを見ていると、ふとさっきの灰色の髪の男の顔が思い浮かんだ。
「ねぇ、さっきの人……バルトラ、だっけ?」
「あの男がどうかしましたか?」
「仲悪いの?」
オレが聞くと、リヒトールはわずかに目を伏せた後、穏やかに微笑んだ。
「彼とは、考え方が相容れない部分が多いので。ですが、腕は確かですよ」
「ふうん……」
組織の中の人間関係も色々あるのかな、などと思いつつ、オレは他の料理にも手を伸ばす。
リヒトールが選んだ料理は、どれも食べやすいものばかりで、なかなか手が止まらない。
彼はくすっと笑い、優雅な仕草で自分の食事を取り分ける。
その穏やかなやりとりを横目に、バルトラが遠くからこちらを見ていることに気づいた。
鋭い灰色の瞳がじっとオレを見据えている。
(……なんだろう)
視線を返すと、バルトラは忌々しそうに眉をひそめ、再び自分の食事に戻った。
(何か、気に障ることでもしたかな?)
考えたところで、答えは出なかった。
オレは黙々と食事を続ける。
――こうして、オレの「新しい生活」は始まったのだった。
初めての訓練
朝食を終えたオレは、アイゼンに「少し休みなさい」と言われ、素直に部屋へ戻った。
昨夜は一睡もしていない。
男に抱かれている最中、組織へ連れてこられ、暗殺者として育てると言われた。
頭が追いつかないほどの出来事の連続で、横になった途端、深い眠りに引きずり込まれた。
──どれくらい眠ったのだろう。
窓の外から差し込む橙色の光が、視界を満たしていた。
起き上がると、思った以上に身体が重い。
どうやら熟睡してしまったらしい。
「……まずい、よね」
さすがに長く寝すぎたのではないか。
慌てて身支度を整えようとした時、扉が軽く叩かれた。
「──ブランシェ。起きているかな?」
アイゼンの声だ。
「起きてるよ。あの、ごめんなさい、寝過ぎたかも」
寝起きで乱れた銀髪を撫でつけながら弁明すると、アイゼンは苦笑した。
「別に構わないよ。どの道、今日の『訓練』はこれから始めるつもりだったからね」
訓練──その言葉に、背筋が軽く強張る。
「……これから?」
「ああ。だから、その前に入浴を済ませておいで。終わったら、私の部屋へ来るように」
穏やかな、けれど有無を言わせぬ口調。
オレは微笑んで頷いた。
「……うん、わかった」
浴場へ足を運ぶと、既に何人かが入っているようだった。
脱衣所には数人分の衣類が雑に置かれている。
オレもそれに倣い、服を脱ぎ、棚の中へ畳んで入れる。
扉を開けると、浴場に充満する蒸気が、肌をじっとりと包んだ。
そして──次の瞬間、場の空気が張り詰めた。
洗い場にいた男たちが、一斉にオレを見たからだ。
(……あ)
彼らの視線の意味はすぐに分かった。
オレの身体に残った、昨夜の名残。
首筋、腕、太腿──薄い肌に刻まれた赤い痕が、いやに目立っていた。
「ハッ、もうお楽しみかよ?」
嘲るような声が響く。
視線を向けると、大柄な男──バルトラがいた。
彼は洗い場に腰を下ろし、短く濡れた髪をかきあげながら、嘲笑を滲ませていた。
オレは少しだけ首を傾げ、笑って答える。
「違うよ。アイゼンの訓練は、これからだって」
一瞬、浴場が静まり返った。
バルトラはじろりとオレを睨み、わずかに眉をひそめる。
「……チッ」
舌打ちとともに、彼は視線を逸らした。
まるで、気色の悪いものでも見たかのように。
(……なんで、そんな顔するの?)
オレが訓練を受けることに、何か不満でもあるのだろうか。
分からないまま、ふと彼の背中へ視線を移す。
そこには、無数の傷跡が刻まれていた。
どれも古く、治癒した後もなお、痛々しさを感じさせる。
中でも目を引いたのは、背中を縦断するように走る深い傷跡だった。
「……痛そうだね」
思わず呟くと、バルトラは鋭くオレを振り返った。
「こんなもん、珍しくもなんともねぇだろ」
低く、苛立ちを滲ませた声。
オレはそれ以上何も言わず、浴槽へと向かう。
湯に浸かると、薬草のような独特な香りが鼻をくすぐった。
(回復を早める成分が含まれてるって言ってたっけ……)
緊張をほぐそうと目を閉じるが、訓練が始まると思うと、どうしても落ち着かなかった。
夜の帳が降りる頃、オレはアイゼンの部屋を訪れた。
扉を叩くと、すぐに「入っておいで」と静かな声が響く。
扉を押し開けると、そこには初めて連れてこられた時と同じ、綺麗に整えられた部屋があった。
書類が積まれた執務机の向こうで、アイゼンは赤い液体の入ったグラスを弄んでいる。
彼はグラスの向こうから、静かに微笑んだ。
「待っていたよ」
その声に、心臓が少しだけ跳ねた。
(……やっぱり、何か怖いな)
でも、逃げるわけにはいかない。
オレはゆっくりと歩みを進めた。
アイゼンが静かに立ち上がる。
ゆったりとした動作は、まるで獲物を逃がさぬ狩人のようだ。
「ついておいで」
差し出された手を前に、一瞬、指先がこわばる。
(大丈夫。『いつも通り』にすればいい――)
自分に言い聞かせ、オレはアイゼンの手を取った。
執務机とは反対側の扉が開かれる。
そこは、寝室。
広くも狭くもない空間に、質素な寝台が一つ。
机と椅子、水差し、燭台。
簡素ながら、どこか無機質な印象を受ける。
ゆらめく蝋燭の明かりが壁に影を落とし、静寂が部屋を包む。
オレの胸の奥で、小さく疼くものがあった。
(ここで、訓練が始まる――)
アイゼンは寝台へ腰を下ろし、オレに手を伸ばす。
「……おいで、ブランシェ」
深く、低く響く声。
誘うようでいて、決して逆らえぬ威圧感を持つ声音だった。
喉が渇く。
「どうしたら……いいの?」
問いかけると、アイゼンは微かに微笑む。
そして、オレの腰を掴み、膝の上に引き寄せた。
「そんなに緊張しなくていい。君がこれまでどう抱かれてきたのか、見せてくれればいいよ」
(……『確認作業』なんだ)
その言葉が、冷たく胸の奥に落ちる。
何も感じてはいけない。ただ、言われた通りに――。
アイゼンが顔を近づけてくる。
息が触れるほどの距離。
「……っ」
唇が重なる。
優しく、けれど迷いなく、深く侵食するような口づけだった。
微かに甘い香りが鼻腔をくすぐる。
(……アイゼンの匂い)
どこか、心を蕩かすような香り。
舌が絡め取られ、熱を帯びていく。
アイゼンの手がオレの身体を撫でる。
品定めをするように、ゆっくりと。
その意図に気づいた瞬間、背筋にひやりと冷たいものが走った。
(『使えない』と思われたら……見捨てられる?)
役に立たないと判断されたら、無言で手を離される――そんな光景が、ありありと浮かんでしまう。
恐怖ともつかない感情が、胸をきつく締めつけた。
逃げられないなら、せめて――必要とされなくちゃ。
「あっ……」
小さく悶える声を上げ、アイゼンの身体にすり寄る。
その背にしがみつき、悦びを演じる。
けれど――。
アイゼンは、それ以上行為を進めようとはしなかった。
まるで様子をうかがうように、指の動きが止まる。
(……なに?)
心臓がひどく大きく鳴った。
「アイゼン……」
甘えた声で名を呼び、自ら口づける。
これまでそうしてきたように、相手を悦ばせるために、もっと求めているふりをする。
それでも、アイゼンは応えなかった。
不安が胸を締めつける。
まるで、試されているみたいだ。
その時――。
「……なるほどね」
唐突に、身体を引き離される。
深い緑の瞳が、冷たい光を帯びて、オレを見つめた。
「相手に媚びて、ただ悦ぶふりをするだけ――それが君のやり方か」
彼の顔は穏やかなのに、その瞳に射貫かれると、息が止まりそうになる。
「……っ」
失望された。
オレの存在意義など、これしかないのに。
何も言えずにいると、アイゼンがふいに低く笑った。
「でもね……それでは意味がないんだよ」
囁くような声とともに、一瞬にして寝台へと押し倒される。
「――っ!」
アイゼンの手が、オレの顎を強く掴む。
逃げられないように、完全に支配するかのように。
「ブランシェ……君は、本当の快楽を知らないようだ」
囁きながら、彼の指がオレの喉をなぞる。
ぞくりと背筋が震えた。
「相手の言いなりになって媚びるだけ。それで済むのなら、訓練など必要ないだろう?」
冷たく言い放つアイゼンの瞳が、オレを見下ろしている。
ゆっくりと、衣服が剥がされる。
熱を帯びた指先が肌に触れるたび、オレの身体は敏感に震えた。
「っえ……?」
(これ……は……)
いつもとは、違う。
こんな感覚、知らない。
まるで、今までオレがしてきたことすべてが、ただの「真似事」に過ぎなかったと言われているみたいで――。
アイゼンの唇が、耳元に落とされる。
「……君に、本物の快楽を教えてあげよう」
その瞬間、オレの世界が、塗り替えられた。
本物の快楽
熱が、身体の奥にじんわりと広がる。
アイゼンの指が、頬をなぞった。
軽く、けれど逃がさぬように。
今までの男たちは、オレが演じる悦びに満足していた。
けれど――。
「君は、自分の心を無視しすぎだ」
囁くような声とともに、指が唇をなぞる。
「……っ」
くすぐったさと、妙なざわめきが胸に広がる。
アイゼンの指先は、試すようにゆっくりとオレの輪郭をなぞっていた。
肌の温度、鼓動の速さ、震える指先――。
まるで、すべてを見透かされているようで、息が詰まる。
(なんで……)
ただ身体を重ねるだけの行為なら、慣れているはずなのに。
けれど今、アイゼンが触れるたびに、それとは違う熱が広がる。
「やめて……」
無意識に呟いた。
「やめて? 何を?」
アイゼンの瞳が微かに細められる。
「こうして触れることを? それとも……」
指が喉をなぞり、鎖骨のくぼみに落ちる。
なぜか、そこが敏感に反応した。
「君が何も考えずに済む、都合のいい夢から、引きずり出すことを?」
静かな声なのに、逃げ場をなくすほどの威圧感がある。
言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「オレは……」
どうしたらいいのか、わからなかった。
このまま流されるべきなのか、それとも――。
アイゼンがふっと微笑む。
「君は、選ぶことを知らないんだね」
選ぶ――?
それがどういうことなのか、わからない。
選ばなければいけないことなんて、なかった。
求められれば応じる。
それが当然だった。
「……っ!」
アイゼンの指が顎をすくい、ゆっくりと持ち上げる。
次の瞬間、唇が重なった。
熱い。
指先よりも、何倍も熱い。
舌が差し込まれ、絡め取られると、思わず息を飲んだ。
(なに……これ……)
抗おうとしても、身体が言うことを聞かない。
舌の動きに追い立てられるように、無意識に応じてしまう。
アイゼンの唇は驚くほど熱く、舌を絡められるたびに痺れるような感覚が広がる。
「……そう、それでいい」
低く囁かれ、背中に腕を回される。
身体が密着し、アイゼンの体温が直接伝わってきた。
(なんで……こんなに、熱いんだ……)
戸惑う間もなく、快楽の波が押し寄せる。
アイゼンの指が肌をなぞるたびに、今まで感じたことのない感覚が生まれた。
ぞくり、と背筋が震えた。
この感覚を、オレは知らない。
「……ん、ぁ……」
声が漏れた。
必死に噛み殺そうとしても、勝手に声が出てしまう。
「素直でいいね」
くすっと笑う声が聞こえた。
わかってる。
これはアイゼンに翻弄されているだけだ。
けれど――オレの身体は、もう止められなかった。
知らなかった快楽に、溺れていく――。
荒い息が静まり、蝋燭の灯が揺れる。
天井を見つめたまま、オレはまだ現実に戻れずにいた。
何が起こったのか……わからない。
今までと同じように振る舞おうとしたはずだった。
相手を悦ばせる方法も、身体の動かし方も、全部知っていた。
けれど、アイゼンに触れられた瞬間、何かが崩れた。
身体が熱くなって、思い通りに動かせなくて……。
(こんなの、知らない)
胸の奥にじんわりとした余韻が広がり、呼吸を整えようとするほど、全身が熱を持つ。
肌に残る指の感触、囁かれた声が、耳にこびりついて離れない。
――アイゼンは、オレに「本物の快楽」を教えると言った。
あれがそうならば、オレがこれまでしてきたことは……。
「ブランシェ」
低く、落ち着いた声が降る。
身体の横に座り込んだアイゼンが、指先でオレの額にかかった髪を払う。
「……気分はどう?」
(……気分?)
それは、どう答えればいいのだろう。
快感の余韻が残っているのに、何故か心はざわめいていた。
これまでの行為は、ただ身体を差し出せば済んでいた。
でも今は――違う。
それが何なのか、まだオレにはわからない。
「……わかんない」
自分で口にして、ますます混乱する。
そんなオレを、アイゼンはじっと見つめていた。
「……君は、本当に何も知らなかったんだね」
何かを見透かすような、冷静な視線。
(なに、を……?)
「……オレのこと、何か知ってるの?」
思わず尋ねると、アイゼンは目を細めた。
まるで、確信めいたものを持っているような顔。
「君がどこで、どんな扱いを受けていたのか――興味がなかったわけじゃないよ」
「――っ」
心臓が跳ねる。
知られた?
アイゼンは、オレの過去を知っているのか?
冷や汗が背中を伝う。
「……知らなくてもいいことも、あるよ」
震えを悟られないように、努めて軽く言う。
だが、アイゼンはそれに何も答えず、ただ微笑んだ。
それが肯定なのか、否定なのか、オレにはわからなかった。
けれど――その微笑みが、妙に優しく見えてしまったことが、何より怖かった。
落ち着かない気持ちを抱えたまま、アイゼンの部屋を後にする。
静かな廊下を歩いていると、突然、鋭い金属音が響いた。
「……?」
音のする方へ目を向けると、少し開け放たれた扉の向こうに広がる訓練場が見えた。
乾いた土が敷かれた広い空間。その中央で、二つの影が舞うように交差する。
リヒトールと、バルトラだった。
オレは何気なく足を止め、壁際の陰に身を隠した。
彼らの戦いをまともに見るのは、これが初めてだ。
リヒトールは黒い訓練着を身にまとい、驚くほど軽やかに動いていた。
まるで風のように、地面を蹴るたび、ふわりと跳ねるように空間を移動していく。
手の中で光る細い刃が、弧を描きながら宙を飛んだ。
ナイフが空を切り裂き、バルトラの身体をかすめる。
バルトラは長剣を片手に、リヒトールの攻撃を受け流しながら距離を詰めていく。
ナイフを避けるたび、額の汗が淡い燭光にかすかに煌めいた。
「ちまちま飛び回りやがって」
低く吐き捨てると、バルトラは剣を握る手に力を込めた。
次の瞬間、地面を踏み砕くような勢いで突進し、一気にリヒトールとの間合いを詰める。
大地が震えるような音とともに、バルトラの剣が振り下ろされた。
「ふふっ、相変わらず野蛮ですね」
リヒトールは微笑みながら、それを軽々とかわす。
地を蹴り、細い体を翻しながら再び距離を取った。
その軌道は流れるように美しく、まるで舞踏を見ているようだった。
「あなたも、少しは美しさというものを学んだらどうです?」
軽やかに言いながら、彼はもう一本のナイフを取り出し、バルトラの視線を誘うように軽く回した。
バルトラは鼻を鳴らし、剣を横に薙ぐ。
「そんなもん知るか。力で抑え込めばいいだけだ」
そう言った次の瞬間、バルトラは剣を地面に叩きつけた。
土煙が一気に舞い上がる。
その一瞬の隙を突いて、バルトラはリヒトールへ突進した。
「――!」
リヒトールが驚いたように目を見開き、身を翻そうとしたその刹那。
バルトラの剣が、リヒトールの肩先を掠めた。
刃が浅く布を裂く音がした。
「……っ」
リヒトールが素早く後退し、バルトラが勝ち誇ったように剣を肩に担ぐ。
「これ以上避け続けられると思うなよ、お貴族様」
「ふ……これは一本取られましたね」
互いに息を整えながら、不敵な笑みを交わす二人。
オレは、ただ息を呑んでいた。
戦いというものが、こんなにも鋭く、残酷で、それでいて美しいものだとは思わなかった。
リヒトールの舞うような動きも、バルトラの圧倒的な力も――どちらも恐ろしく、けれど、目を離せなかった。
「……すごい」
そう呟いた自分の声が、思いのほか小さく、震えていることに気づいた。
※※※
室内は静かだった。
熱を帯びた肌を撫でる空気が、ひやりと冷たい。
さっきまでの熱が嘘のように感じられるほど、オレの心は静まり返っていた。
アイゼンとの訓練は何度も繰り返された。
そのたびに、抗えないほどの快楽を身体の奥まで刻み込まれた。
けれど――。
「……君は、主導権を握るということを、知らないね」
耳元に落ちた低い声に、オレはゆっくり顔を向けた。
深い緑の瞳が、迷いもなくこちらを見据えている。
「相手の望むままに応じることに慣れすぎている。だが――それだけでは、この世界では生き残れないよ」
アイゼンの指が、オレの顎を軽く持ち上げる。
「ここでは、支配する者が生き残り、支配される者は淘汰される」
「……オレは、その『支配される』側ってこと?」
「ああ。今のままではね」
あまりにも当然のように言い切られ、オレは苦笑しかけた。
けれど、アイゼンは続ける。
「けれど、私は君にそのままでいて欲しいとは思わない――少しだけ、『支配する感覚』について教えよう」
「……支配する、感覚……?」
「相手に媚びて従うのではない。逆に、相手の心と身体をこちらに引き寄せて動かす。そう――『誘う』ということだよ」
アイゼンの指先が、オレの喉元をなぞる。
ひやりとした感触が肌を這い、背筋がぞくりと震えた。
アイゼンはオレの手を取り、そっと自分の肩へと導いた。
「試してみようか。このまま私を『誘って』ごらん」
「え……?」
どうすればいいのか、まったくわからない。
戸惑いながら、オレはとりあえずアイゼンの肩に触れてみた。
その瞬間、彼の唇がうっすらと歪んだ。
「それでは、ただの媚びだよ」
「……っ」
「何も考えず、相手に従おうとするだけでは意味がない。『誘う』というのは、相手の意識を奪う行為だ。主導権を、自分の手に引き寄せることだよ」
そう諭されても、本当にどうしたらいいのかわからない。オレは固まってしまった。
そんなオレの心情を見抜いているかのように、アイゼンは続ける。
「だが、君はまだその感覚を知らない」
囁くような声が、心臓の奥に染み込む。
アイゼンはそっとオレの手を取り、自分の首筋へと導いた。
「……!」
じんわりと、熱が伝わる。
オレの指の下で、彼の脈が確かに打っていた。
「何を感じる?」
「……アイゼンの、鼓動」
「そう。今この瞬間、私の意識は君の指先に奪われている。それが『支配』の始まりだ。相手の感覚を、自分に向けさせる――誘うとは、そういうことだよ」
オレは何も言えず、ただ見つめた。
そんなこと、これまで考えたこともなかった。
「……少しはわかったかい?」
アイゼンの唇が、オレの首筋にそっと触れる。
その感触に、思わず肩が震えた。
(……これが、『支配する』ってこと?)
まだ、理解はできない。
けれど、胸の奥で何かが確かにざわめいていた。
「……よく頑張ったね」
アイゼンは穏やかにそう言って、オレの髪を指先で梳いた。
その仕草は、これまででいちばん優しくて――まるで、何も知らなかった子供を労わるようだった。
「まだ始まったばかりだけど……君なら、少しずつ覚えていける」
アイゼンはふっと目を細め、オレの肩を軽く叩く。
「さて。そろそろ次の段階へ進もうか」
「次……?」
「リヒトールのもとへ行きなさい」
アイゼンの目が真っ直ぐにオレを射抜く。
「彼との訓練を通して、君は『貴族』を支配する術を学ぶことになる」
(貴族を……支配?)
オレは思わず聞き返しかけたが、アイゼンはそれを察したように、すっと視線を逸らした。
「この国は、表向きには軍事大国として栄えているが……その実、腐敗した貴族たちが、富と権力を傘に快楽を貪っている」
アイゼンの声は冷ややかだった。
「彼らは、戦争で生まれた孤児や、弱い者たちを――まるで物のように扱う。売るだけじゃない。買いもする。使い捨てる。賭けの駒にすらする」
視線が宙を捉え、淡々と続ける。
「そして――そうした貴族を利用しているのが、国家自身だ。手に負えなくなった者、邪魔になった者は、裏から我々に排除を依頼する」
「……国が、暗殺を?」
「ああ。我々の長は国と癒着し、公爵の地位すら得ている。表と裏の境など、とうに消えた。今この国を動かしているのは、見えない『取引』だよ」
(……そう、だったんだ)
アイゼンがあの貴族の男を殺しに来たのは、そういう理由だったのか。
「貴族を相手にするなら、彼らを利用し、翻弄する術を知るべきだ」
アイゼンはオレの顎を軽く持ち上げ、僅かに口角を上げた。
「支配されるのではなく、君が支配するんだ」
その言葉を最後に、アイゼンはオレの手を離した。
もう、迷いは許されないというように。
オレはゆっくりと息を吐く。
次は……リヒトールとの訓練。
先日、強烈に印象に残った、彼とバルトラとの一戦。
舞うように優雅なのに、隙のない身のこなしで敵を狙う彼の姿が、また頭に浮かんだ。
優しげな笑みが印象的だったけれど、それだけであるはずがない。
(オレ……また、変わるのかな?)
胸の奥に、不安と、知らない自分に近づいていくような戸惑いが静かに渦を巻いていた。